【追悼】カープファンのワシじゃけど、言わせてつかぁさい ―「我がミスターは、永久に不滅です」

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ワシゃ、生まれも育ちも広島じゃけえ、もちろんカープファンじゃ。
小さい頃から、赤いユニフォームに夢中じゃった。巨人?ほいじゃけ、宿敵よ。

じゃがのう──あんたぁ、別格じゃったんよ。
1974年10月14日、引退セレモニーで「我が巨人軍は永久に不滅です」ゆうたときの姿、今でも目に焼き付いとる。
そがぁな言葉、なかなか出んで。あれはただの名言じゃのうて、覚悟の言葉じゃった思うんよ。

その人が、2025年6月3日、肺炎で亡くなられた。
ワシらにとっては、ほんまに「長嶋茂雄 追悼」の日じゃった。
脳梗塞から立ち上がりよった姿も、心に残っとる。
あんたが見せてくれたんは、成績や記録だけじゃのうて、人としての「粋」じゃった。



今回は、カープファンの視点から、 あんたが「なんでそんなにすごかったんか(長嶋茂雄 何がすごい)」を、よう思い出して語らせてもらいますけぇ。 ワシの中で、ミスターは今でも不滅じゃけぇ──。

あんたが引退したあの日、少年のワシは泣いたんよ

1974年10月14日──その日、長嶋茂雄 引退のニュースは、テレビを通じて日本中に流れた。
プロ野球シーズンの最終戦。場所は後楽園球場。
ワシは、当時8歳。野球のルールもまだよう分からん年頃じゃったが、
母ちゃんの隣で、小さなブラウン管に映る光景を、黙って見とったんよ。

巨人の背番号「3」。
いつもテレビの向こうで活躍しとる“敵”のはずなのに、
なんでか知らんけど、その日は違う気持ちで見とった。

「我が巨人軍は永久に不滅です」──あれは夢か、現実か

試合が終わったあと、静かにセレモニーが始まった。
場内は満員。みんな立っとったけど、誰一人、声を出さんかった
聞こえとったんは、スピーカーから流れるあんたの肉声だけじゃった。

「我が巨人軍は永久に不滅です。」

その言葉が流れた瞬間、球場がどよめいた。
けれどワシの中では、逆に時間が止まった気がしたんよ。

“巨人”ゆう存在が、ただのチームじゃのうて、
何か大きなものを背負う生き物みたいに見えた。
そして、あんたが背負っとったもんの重さを、
子どもながらに感じたような気がしたんじゃ。

「野球って終わることがあるんじゃ」──その日、初めて知った

それまでは、野球はずっと続くもんじゃと思うとった。
打って、走って、投げて、また打って──終わらん遊びのようなもんじゃと。
けれど、あの日あんたが涙を流して、帽子を取って頭を下げたとき、
ワシの中で何かが静かに終わった気がしたんよ。

「好きな人でも、永遠にはプレーできんのんじゃな」
少年の心に、ぽっかりと穴が空いた。
それは、初めて味わう“別れ”の感覚じゃったと思う。

カープファンじゃけぇ、いつもは巨人に負けて悔しがっとった。
けどその日は、何の抵抗もなく──自然と涙がこぼれたんよ。
“敵なのに泣ける”、そんな人、あんたしかおらん。

ワシの少年時代は、あの日を境に少し大人になったんかもしれん。
そして今もあの声が、ふとした瞬間に蘇るんよ。
──「我が巨人軍は永久に不滅です。」
そう言うあんたの目は、涙で濡れとったのに、不思議と笑うとった。
ワシにとって、忘れられん日じゃけぇ。

成績だけじゃ伝わらん、あんたのすごさ

そりゃあんたの成績は、まさに“伝説級”じゃったよ。
通算2471安打、444本塁打、1522打点、打率.305
これだけ見りゃ、ほんまにすごい選手じゃ思うじゃろう?
でものう──ワシがあんたを覚えとる理由は、数字のせいじゃないんよ。

長嶋茂雄の成績は、数字以上に「風景」なんよ

打った球の弾道、スイングの軌道、
走塁のときの背筋の伸び方──
“絵になる”いうんは、あんたのためにある言葉じゃ思うたわ。

巨人ファンでもないのに、
あんたの打席は家族みんなで見よった。
ワシの親父も「今日はミスターが打つかのぉ」とか言いながら、
ビール片手にチャンネル変えんかったけぇね。

数字はあとからついてくる。
けど、あの頃の野球中継の空気感そのものが、
あんたの“すごさ”を語っとるんじゃと思うんよ。

「何がすごいん?」って聞かれても、よう言えんのんよ

長嶋茂雄 何がすごいん?」って聞かれること、今でもある。
そのたびにワシはちぃと困るんよ。
数字かてすごいし、スター性もある。
でも一番は──説明できん“何か”を持っとったことじゃろうの。

プレーに華がある、とか、スター性がある、とか、よう言われるけど、
そがぁな言葉では片付けられん。
ワシは、「球場の空気を変える力」っちゅうんが、一番しっくりくる気がする。

あんたが打席に立つとき、
画面越しでも、空気がピリッと変わるんよ。
音が澄むいうか、観客の呼吸まで変わるいうか──

そがぁな存在感は、成績だけでは語れん“人間としての野球”じゃったと思う。
あんたを「ミスター」と呼んだのは、巨人だけやない。
ワシら、他球団のファンでさえも、
自然とその名前に“さん”を付けとったんよ。

数字で測れんすごさ。
それが、ワシらの心に残った「ほんまもん」なんよ。
成績はプロ野球史に残る。
でもあんたは、それ以上に──日本人の記憶に残っとるけぇ。

脳梗塞から立ち上がった姿も、ミスターらしゅうて泣けた

ワシは、あんたが脳梗塞で倒れたって聞いたとき、
ほんまに心臓がズキンとしたんよ。
2004年、アテネ五輪の代表監督を目前にしとった時期じゃった。
「ミスターがオリンピックのユニフォームを着る」──
それだけで胸が熱うなっとったのに、突然のニュースじゃったけぇ。

最初は「もう人前には出てこんかもしれん」と思うとった。
けど、あんたは違ったんよ。
倒れても、立ち上がる姿まで“スター”じゃった。

リハビリ姿も堂々と見せてくれた、それがすごかった

後遺症が残った手足を引きずりながら、
人前に立って、笑顔を見せとったあんたを初めてテレビで見たとき、
涙が止まらんかった。
「ああ、この人はほんまに“野球の人”なんじゃな」って。

元気な姿だけを残すんやのうて、
弱った姿も見せて、
それでも“ミスターはミスター”じゃけぇ”って背中で語ってくれとった。

手を振るのも、足を運ぶのも大変そうじゃったのに、
球場ではいつもファンに向かって笑顔で頭を下げとった。
あの仕草ひとつで、
「人としての品格」いうもんを、ワシは見せてもろうた気がする。

それでも野球の側におった、あんたの意地がかっこえかった

あんたは2001年に巨人の終身名誉監督に就任しとったけど、
病気のあとも、行事にはできるだけ顔を出しよっちゃった。
東京ドームの表彰式、国民栄誉賞、聖火ランナー──
あの手、この手で“野球のそば”にいようとしとるように見えたんよ。

「わしゃあまだ現役じゃけぇの」
言葉にはせんでも、そんな気迫が伝わってきとった。

2013年、松井秀喜さんと一緒に「国民栄誉賞」を受け取ったとき、
壇上での姿は堂々としとったのう。
手をつなぎながら笑いよる姿に、
“後輩と肩を並べる”あんたの優しさも見えた気がしたんじゃ。

怪我や病気と向き合いながら、
それでも“野球の顔”として在り続けたあんた。
成績や記録とはまた違う、生き様のすごさを見せてくれた気がするんよ。
その姿に、何度も勇気をもろうた。ほんまにありがとう。

血液型まで語り草になるほど、あんたは“国民の人”じゃった

長嶋茂雄 血液型はO型なんよ」
──この話、昔からよう聞いた。
ほんまかどうかはともかく、
「らしいのう〜」って、みんな笑いながら頷いとったんよね。

自由奔放、天然、明るうて、ちょっと抜けとる。
でも、誰よりも情が深うて、義理堅うて。
そういうO型の“イメージ”が、そのままあんたの姿と重なっとったんじゃと思う。

あんたの存在は、家族の話題になるレベルで“近かった”

たとえば、家で味噌汁をこぼした時、
親父が「ミスターか、お前は!」って笑いながら言うたり、
新聞のスポーツ欄に載っとるだけで「今日は元気そうじゃの」とか言うたり。
あんたは芸能人じゃのうて、“親戚みたいな有名人”じゃった。

球場におるときも、スーツ姿でテレビに出とっても、
なんか“わしら側の人間”みたいな安心感があったんよ。
それが、「国民的スター」いうより、
「国民の誰かひとり」みたいな、不思議な距離感じゃった。

国民栄誉賞も「受賞した」というより、「当然じゃった」

2013年、あんたは松井秀喜さんと一緒に国民栄誉賞を受け取った。
あのとき、誰も「なぜ長嶋さんが?」なんて言わんかった。
みんな「ようやくじゃのう」って、うれしそうにしとったよ。

「受賞」じゃのうて、
“もうすでに受けとるもんを、やっと形にしただけ”
そんな感じじゃった。

式典のとき、あんたの手をしっかり握っとった松井さんの顔も、
どこか子どもに戻ったような表情じゃった。
まるで“憧れの父親”を支えるような、あったかい場面じゃったのう。

O型じゃけぇ天然じゃったとか、豪快じゃったとか、
そがぁな話題さえ笑いながら語れる人って、
そんなにおらんと思うんよ。
人間としての味わい深さ。
それもまた、あんたが「国民の人」ゆう証じゃけぇ。

あんたの名言は、球場の風に今も残っとる

「我が巨人軍は永久に不滅です」
──これほど多くの人に覚えられとるプロ野球の名言って、他にあるじゃろうか?
そもそも、引退の挨拶でここまで“語り継がれる言葉”を残せる人間なんて、そうおらんよ。

あの1974年10月14日、後楽園球場であんたが言うたとき、
スタンドの応援も、一瞬止まったように見えた。
ワシはテレビの前で見とったけど、画面越しでも鳥肌が立ったのを覚えとるんよ。

その一言に、あんたの全部が詰まっとった

この名言、どこがすごいかっちゅうたら──
よう考えた言葉じゃのうて、あんたの「本音」じゃったことよ。
泣きそうになりながら、でも笑顔で、
震える声で言うた、その「間」。
そこに、野球人生ぜんぶが込められとった気がしたんよ。

あんたにとって、巨人軍は“職場”じゃのうて、“生き方”じゃったんじゃろうの。
だから、「不滅です」って言葉も、チームじゃのうて、“魂”の話に聞こえたんよ。

あの言葉は、今でも風の中に生きとる気がする

ワシはカープファンじゃけぇ、巨人の応援歌を歌うこともないし、
東京ドームにもよう行かんけど──
ふとしたときにあの言葉が頭によぎることがあるんよ。
「不滅です」──ただそれだけで胸が熱うなるんよ。

試合前の静けさ
引退セレモニーの拍手
スコアボードに映る「3」の文字──
そのどれにも、あの言葉は今も残っとる。

あれは単なる“引退の挨拶”やなかった。
“誰かの記憶に生きる方法”を教えてくれた、あんたの最後のメッセージじゃったと思う。

カープを応援しながらも、心のどこかで「巨人もええな」と思えたのは、
あんたのその一言が、“敵”という言葉を溶かしてくれたけぇかもしれん。
ほんま、名言っちゅうんは、その人の人生そのものじゃのう。

ありがとう、ミスター。カープファンのワシがこう言うんじゃけぇ間違いない

ワシはカープファンじゃ。
赤い帽子かぶって、悔しい夜をようけ味わってきた。
巨人に負けた試合も、ミスターに打たれた一発も、
今でも忘れとらん。

じゃけぇこそ、よう分かるんよ。
悔しいのに、なんでか嬉しい。
負けたのに、「今日はええもん見れた」って思える。
そがぁな選手、ほんまにおらんかったけぇ。

“敵”であるはずの人に、人生を照らされとった

あんたを初めてテレビで見たのは、まだ8つのときじゃった。
「なんかすごい人がおる」って、子ども心に思うた。
それが野球との最初の出会いで、
それが“憧れ”いう感情のはじまりでもあった。

成績でも、言葉でも、仕草でも、
あんたはワシの人生の節目に、ずっと立っとった気がする
たとえ遠く離れた広島で、
たとえ敵チームのファンでも。

記憶に残る人は、いつまでも「生きとる」もんじゃ

2025年6月3日、あんたが旅立たれた日。
ワシはニュースを見ながら、無言になってしもうた。
頭では分かっとるつもりでも、心がついてこんかった
それだけ、“生きとった”んよ、記憶の中で。

ワシらの記憶に生きとるうちは、
あんたはまだ「現役」なんよ。
それが「不滅」いうことじゃけぇ。

成績や記録は、データとして残る。
けど、あんたはそれだけやない。
ワシの少年時代も、家族の思い出も、
テレビの前の静けさも──全部にあんたがおった。

じゃけぇ、こうして言わせてもらいます。
ありがとう、長嶋茂雄さん。
カープファンのワシがこう言うんじゃけぇ、間違いないんよ。
あんたは、ほんまに特別な人じゃった。

そして今、胸を張って言える言葉

人の人生には、いろんな“別れ”がある。
けど、ほんまに心が揺れる別れっちゅうのは、
自分の一部まで連れていかれるような、そんな感覚があるんよね。

2025年6月3日──長嶋茂雄さんが逝かれた日
ワシは、ただ静かにテレビを見つめとった。
泣いたわけじゃない。
でも、胸がいっぱいになって、何も言えんかった。

“特別な存在”は、勝ち負けを越えて記憶に残る

ワシにとって、あんたは野球そのものじゃった。
プレーも、言葉も、笑顔も、
全部が“あの頃の野球”を象徴しとった。

そして、気づいたんよ。
あんたのすごさは、勝った負けたやのうて、
人の心を温めて残ることじゃったんじゃと。

試合は終わる。
引退もする。
人生にも幕は来る。
じゃけど、“記憶に生きる人”は、終わらんのんよ。

カープファンのワシじゃけど、
今なら胸を張って言える。
──我がミスターは、心の中で永遠に不滅です。

あんたが見せてくれた野球は、
ただのスポーツやなかった。
人生の一部であり、誇りの一片じゃった。

ほんま、よう頑張りんさった。
どうかゆっくり、やすう眠ってつかぁさい。
ありがとう、長嶋茂雄さん。
あなたの笑顔は、今も球場の風に残っとりますけぇ。

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